Beyond the rain [Second]
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結奏を見送った後、相も変わらず降りしきる雨の中を少し息を切らして走った八恵は、近場のカフェに入ってひと時の休息を取ることにした。
天気が悪いこともあってか、店内に客の姿はまばらで、レジカウンターも空いてて直ぐに注文を受け付けてくれた。
今回のチョイスは、瑞々しい新鮮なオレンジを使った贅沢果汁百パーセントオレンジジュース。
注文後、目の前でジューサーを使ってすぐに用意されたそれを手に取り、八恵は店の入り口からちょっと離れた窓際の席を陣取った。
席に着くや否や、八恵は注文したオレンジジュースを凄まじい勢いでストローで吸い上げ、喉へと流し込んでいく。
干からびあがった運河に川の水が戻ったが如く、カラカラに乾ききっていた喉が潤いを取り戻した。
同時に、口内がジューシーな甘味と酸味で満たされ、鼻腔を柑橘の爽やかな香りが突き抜けて頭がリフレッシュしていく。
「……はてさて、夜からユカっちと合流というわけだけど、問題はその間どうするか」
しかしそんな目が覚めていくような感覚をよそに、ストローを咥えて独り言ちながら、八恵は店の外をぼんやりと眺めた。
陰雨な1日を終日独りで過ごさなければならないという最悪の事態は免れたものの、結奏が帰ってくる夜までは結局独りでいるしかないわけである。
――朝寝坊せず、もうちょっと早く起きて行動できていれば、今頃は普通にユカっちと過ごせていたのに。
そう考えると今回ばかしは、八恵は己の惰眠を恨めしく思った。
「ソヨっちのとこ、もうお客さん帰ったかな。また見に行こっかなぁ」
グラスの底の方のオレンジジュース――溶けた氷と混ざってだいぶ薄い――を音を立てながらストローで吸い上げ、上の空気味にそんなことも考える。
だがそれと同時に、まだ客人がいるかもしれない、もしくは客人が帰ったタイミングで想陽子自身がどこかに出掛けてしまったかもしれない、そんなネガティブなことも思い浮かんでくる。
わざわざまた雨に身体を打たれ出て行って徒労に終わるのは嫌だし、でもこのまま独りでいるくらいなら再び希望に掛けてみたい気もする。
悶々とした気持ちに八恵は板挟みとなり、椅子に根を張ったかのように腰は重く、持ち上げ難かった。
「んー、どうしたものかどうしたものか……あ、ジュース飲み切っちゃった。とりあえずもう1杯お代わりでも――」
並々にオレンジジュースを注がれていた透明なグラス、その中身が氷の山だけになっていたことにようやく気付き、八恵は追加注文で席を立とうとした。
「あ、居た居た~。八恵さん~」
そのとき、後方からゆったりとした声で、八恵の名を呼ぶ声がした。
本当に一瞬であるが、名前を呼ばれた瞬間「もしかして」と思ってしまった。
しかしこの声の感じは、想陽子でも、もちろん結奏でもないのは明白で、芽生えかけた希望は須臾の間に消え去った(それにそもそも、彼女たちは八恵のことを"さん"付けで呼ぶはずがない)。
その一方で、間違いなくこれは聞き覚えのある声音でもあり、八恵は少々判然としないまま、呼び声の主を確かめるべく、ゆっくり後ろを振り返った。
パッと視界に入ってきたのは、何故か靴も履かず、こちらに裸足で歩み寄ってくる小柄な少女。
とても淡い空のような色の髪は、癖毛だらけで手入れがされていないように見えるが痛んでる様子はなく、どこかしっとりとした印象を受ける。
雲とお日様がデザインされた可愛らしいTシャツを身に纏っているが、彼女の小さな身体つきで着るにはそのシャツは明らかにサイズが大きく、広く開かれた首元からは鎖骨と肩が露わになっており、その肩の部分には、翼を表した紋章のようなものが描かれていた。
そのまま視線を下の方へ運び、改めて全身をよく見て気がついたが、驚くべきことに、彼女は服と呼べるものをTシャツ一枚だけしか身に付けていないようだった。
膝上までシャツの丈が届いているため、内側の乙女の聖域はギリギリ見えていないが、別途スカートやズボンを履いているようにも見えない。
非常に大胆で、街中ですれ違ったら間違いなく二度見、三度見ぐらいしてしまいそうな姿だが、どうやら彼女自身は特に気にしていないようなので、逆に自分たちがおかしいのかと錯覚すら覚えてしまいそうだった。
そしてもう一つ、気が付いたこととして、傘も何も持たず店の外から来たはずなのに、不思議と彼女の髪や身体は一切濡れていない様子だったのだ。
銃弾のような速さで落ちてくる無数の雨露の中を、生身で全て避け歩くなど、もちろん普通の人間には不可能なことであり――
流石にここまで多くの際立った特徴を視認できれば、声だけでは判別できずモヤモヤしていた八恵も、目の前の少女が誰なのか、該当する名前が浮かんでいた。
そして彼女とは久方ぶりの再会ということもあって、思わず顔を綻ばせて呼びかけに応じたのだった。
「あ! アヤっちじゃん! 久しぶりー」
「どうも~、お久しぶりです~」
手を振りながら八恵のところまで歩み寄ってきた"アヤっち"は、たるんとした目尻でこちらを上目遣いに見てくる。
「いやー、暫く会えてなかったけど、元気にしてた?」
「はい~、毎日ポカポカと雲さんに乗って日向ぼっこして過ごしていましたよ~。雲さんはふかふかでとっても気持ちよくて、ずっと寝ていられます~」
「にゃはは、その気持ち分かる分かる。私もベッドに身体を預けたときの包まれる感じが何とも気持ちよくて、うっかり寝続けちゃうんだよねぇ」
「でもでも、お仕事の方はきっちりとこなしていたつもりですよ~。如何でしたか~、何か問題はありましたか~?」
「んー、特に問題なし! 素晴らしいお天気管理手腕! あ、でもやっぱり、雨の日は無くてもイイんじゃないかなぁとか思うんだけども」
「いや~、いくら八恵さんでもそのお願いは聞けませんって~。一時的に雨の日を削って晴れの日を増やすとかならまだしも、雨日を恒久的に無くそうものなら色々大変なことになりますから~」
「ですよねー。ま、自分でも無理だと分かってはいても、ついお願いしたくなっちゃうのだ。あ、そういえば……」
久々の邂逅で、八恵の口からは止め処なく言葉が紡がれ続けた。
そしてそれに嫌な顔一つせず応じる彼女、"アヤっち"は、フルネームを天道彩という。
想陽子と結奏ほどではないが、結構古くからの付き合いで、仲もかなり良い。
穏やか和やかにお喋りする彩は、何も知らない人が傍から見れば、小さくて可愛らしい普通の女の子に見えるだろう(ちょっと変わった恰好なのは置いておいて)。
しかし、会話の内容からも察せられる通り、その実態は、実は八恵が神様であるという事実と同等に、普通なんかではない。
彩は、この世界の創造神である八恵から依頼され、解放都市及び周辺地域の天気の管理を一元的に行っている、いわばこの世界の天候を司る神なのである。
晴れ、曇り、雨、あられ、雷、雪などなど、彩の手に掛かれば、その日の空模様は変幻自在というわけなのだ。
「……おっと、そういえばアヤっち。私のこと探してたみたいだけど、何か御用?」
「あ、そうなですよ~」
うっかり話に花が咲きすぎて忘れそうだったが、どうやら彩は八恵のことを探しに来たような感じだった。
八恵の方から彩の元へ会いに行くことはあっても、その逆は滅多にない。
随分と前、今回のように彩の方から会いに来たことがあった気もしたが、その時はどんな要件だったか――
「八恵さん、今からお出掛けしましょ~」
「ほへ? お出掛け?」
朧げな記憶を辿ってみようとしたとき、彩の小さな手が、八恵の手を握ってきた。
ふにっと柔らかな感触で、赤子のようにすべすべとしている。
彩の温もりもじんわり伝わってきて、いつまでも触っていたくなる。
だが、それは束の間の心地良さで、徐々に彼女の手に込める力が強まり、圧迫感を受け始めた。
そしてこちらの返答を待たずして、彩が強引に手を引いてきたので、八恵は思考が追い付かないまま、引っ張られそうになる身体を慌てて踏み止めた。
見かけによらず、意外と力が強い。
「ちょ、ちょ、待ってアヤっち! 流石に急すぎる! てかお出掛けって何処に?」
「えっとですね~、つい先日、日向ぼっこするのにとても良い場所を見つけたんですよ~。折角なので、八恵さんもご招待しようかなと~」
「え、今から? てか雨降ってるよね?」
「お日様が出てるお空の上まで、雲さんでひとっ飛びですよ~」
「いや、だからって、あ、アヤっちー! あー、せめてオレンジジュースをもう一杯ー!」
彩の想定外にパワフルな歩みを止めることはできず、ぎゅっと固く手を結ばれたまま、八恵は引きずり出される形で店の外へ連行された。
「さ~さ~、どうぞお乗りください~」
そうして店の外に出てみると、屋根のついた出入り口前には、八恵が入店したときには無かった、もこもことした物体が浮かんでいた。
「……えーっと、これは」
「雲さんですよ~」
絵本とかでも見掛けたことのある、白いわたあめのような外観は、ソファとかクッションのようにも見える。
だがよく目を凝らしてみれば、薄っすらと透けて向こう側が見えるし、思いきり雨粒が突き抜けている。
質量感皆無。
「これ、私が乗っても大丈夫?」
「もちろんですよ~」
「ほんとに?」
「ほんとですよ~」
「まことに?」
「まことです~」
「うーん」
「ど~ん」
「うみゃ!?」
どう考えても人が乗れそうな雰囲気を感じられなかったので、訝しんで彩へ迫ったところ、これまた想像以上の力強さで八恵は彼女に身体を押された。
突き飛ばされた八恵の身体は重力を伴って、彩が雲と呼ぶ物体へと倒れ込んでいく。
このままでは、雲を透り抜けて地面に激突してしまう――
そう思った刹那、八恵の身体は今までに感じたことのない柔らかな弾力で小さく跳ね返った。
「お? おお~?」
「どうですか~八恵さん、気持ちいいですか~」
「いや、え、これは……すごく、気持ちいぃ……」
寝るのが好きな八恵は、趣味レベルとまではいかないが、普段使いの寝具には少しを力を入れている。
つい数時間前まで実際に八恵が身体を丸めていた家のベッドも、解放都市の色んな店に自ら足を運んで寝心地を試し、一番安らかに、一番気持ちよく眠れる逸品ということで選抜したものだ。
そう簡単に、そこまで苦労して選び抜いたベッドを超える程の安眠を与えうる存在とは、出逢えるはずがない。
しかし、そんな考えはあっけなく消えてしまった。
今しがた八恵が身体を預けているこの雲の寝心地は、愛用のベッドのそれを軽く凌駕しているのだ。
彩は「ふかふか」などと言っていたが、到底そんな安っぽい表現では収まりきらない。
――赤ちゃんがお母さんに抱っこされてるときって、こんな感じなのかなぁ……私には分かんないけど。てかアヤっち、いつもこんなので寝てるなんていいなぁ。私も毎日これで寝れたら色々捗り……いや、逆に一生に起きられなくなりそう……
「それじゃあ八恵さん、出発しますよ~」
「ん、んにゃ。はいはーい」
全身で雲に突っ伏し、思考の海に潜りかけていたところへ、隣に腰かけるように座った彩が出発の旨を伝えてきた。
程なくして、重力に逆らう得も言えぬ浮遊感が身体全体を包む。
雲による極上の寝心地と、地に足が着いていないふわっとした感覚が織り成すものに、八恵はかつてないほどの高揚感に包まれた。
軽く、エクスタシィ。
「……あれ、そういえば雨は?」
あんまりにもゴキゲンになっていたので気付かなかったが、雨晒しの中を飛んでいるはずなのに、八恵たちは一切雨に打たれていなかった。
一体何が起こっているのかと、八恵は身体を仰向けにして上を見た。
するとそこには、まるで傘をさしているかのように、八恵たちを乗せた雲を避けて雨粒が流れ落ちている光景が広がっていた。
何も視えない、だけど確実に何かが頭上に在るかのよう。
「おぉー、すごい。これって、アヤっちの?」
「はい~、ボクの力ですよ~」
天道彩は天候を司る神である。
だが正確には、彩は「天候」という概念を直接操ってはいない。
八恵と彩たちを乗せた雲を避けて雨が降っているというこの状況も、彩が進行方向上空の雨だけを止める力を働かせている、というわけではない。
彩の力の本質とは、空気の気体粒子――気粒と呼ぶ――を制御することなのである。
天気とは気粒の状態によって決定される気象状態。
つまり、気粒を思いのままに操れるということは、天気を自在に操れることを意味しているというわけだ。
そして彩は、一方でこの能力を自分自身にも大いに活用しているらしい。
靴を履かずに地上を歩いても足は汚れないし、髪の毛一本一本が保湿されているから見た目よりずっと髪質は良い、雨の中でも雨粒を全て弾くから全く濡れることがない――自身の身体を気粒の層でコーティングすれば、そんなことも可能というから、全く便利と言わざるを得まい。
今の状況も、彩が雲の直上に、気粒による雨除けの屋根を創り出しているといったところなのだろう。
「いいねぇ、アヤっちの力。雨の日も雨具いらずってのも最高だけど、やっぱり特にこの雲。私もこれで毎日、極楽快眠スヤスヤパラダイスを送りたいにゃあ」
「いえいえ~、八恵さんの力には到底及びませんって~。というより、八恵さんだって力を使えば、簡単にボクの真似なんてできますよね~?」
「まあ、そうなんだけどね。にゃはは」
高度を上げるにつれ、小さくなっていく解放都市。
青い華がついたツバの広い帽子を少し深く被り直して、八恵は遠くなる街をぼんやりと眺め見た。
彩の言う通り、八恵が力を使えば雲どころか、眼下に広がる街々や、人々が生きとし生きる世界を創造することすらできる。
何の苦もない、八恵にとっては容易い話。
それは事実であるのだが――
「……何だか眠くなってきちゃった。アヤっち、お先にひと眠りしていい?」
「いいですよ~。お目当ての場所に着いたら、また声掛けますね~」
「ん、お願いねん」
彩にそう言い残すと、八恵は考えるのを止め、眼を閉じた。
魂が抜けていくかのように、意識が遠退いていく。
次第に、次第に、ゆっくりと、ゆっくりと。
今は何もかも忘れ、ただただ、八恵はこの上ない至福の微睡へと身を投じたかった。
眩しい
輝かしい光で満ち溢れている
この光は何処から生まれ、何処へ向かっているのだろう
行き着く先には、一体何があるのだろうか
如何なるものが待ち受けようとも、辿り着かなければならない
そして、全てを包み込もう
其処に、自由を願い
其処に、本当の私がいると信じて
「――さん、八恵さん~」
軽く肩を揺り動かされる感覚と、もの柔らかな呼び声。
「着きましたよ~。起きてください~」
「ん、んん……」
目縁の隙間から、光が差し込んでくる。
どのくらい眠りに落ちていたのかは分からないが、どうやら今回の目的地、雨空を越えた先の、日光浴ポイントに到着したらしい。
眼尻を擦り、外界の明るさに眼を慣らしつつ、八恵は少しずつ周りの様子を捉え始める。
先ほどまでいた地上、薄く仄暗い世界とは正反対な、どこまでも見渡せそうなほどに白く晴れ晴れしい雲海の上。
日の光が燦燦と照り返し、自然に眠気や気怠さまで浄化されていく心地だ。
全方位から光に当てられているにも関わらず、肌を焼かれるような熱さは感じないが、身体の芯にまでじんわりと浸透してくる温かさは感じる。
生命力を活気づけられるような、力が漲ってくる感触すらある。
「んーにゃー、これは何とも気持ちがいいー。何だかやる気まで湧いてくるねぇ」
手を組んで頭上まで腕を上げ、背筋を伸ばすと共に凝り固まった身体をほぐした八恵は、感嘆の声を発した。
「いやはや絶景絶景。こうやって世界の雄大さを認識すると、うじうじとあれこれ考えていたことなんて、どうでもよくなっちゃう。ありがと、アヤっち。素敵な場所に連れてきてくれて」
「……」
清々しく、爽やかに、八恵は満面の笑みで彩に感謝の言葉を投げかける。
しかし彩は、たわやかな表情のまま、無言で八恵を見詰めるのみだった。
「? アヤっち?」
「八恵さん、まだ気付かないんですか~?」
「ほぇ?」
少しの沈黙の後、ようやく開かれた彩の口からは、思ってもいなかった台詞が飛び出してきて、つい間の抜けた声が漏れ出てしまった。
だが、立て続けに彩から発せられた言葉は、更に想定外のものであった。
「ここ、神次元ですよ~?」
「……はぁ?」
次元。
在りとし在る物、神羅万象宇宙が存在するこの世界は、次元という概念で構成されている。
異なる世界は次元が異なり、異なる次元は世界が異なる。
次元とは、その内に内包する総ての事象条件を決定する、因子を設定付けるものである――
……このように説明すると分かりづらいが、要は物理的なこと、魔法的な事、超常的なことなどの法則だったりを定義付けて時空間に反映させているもの、それが次元だ。
次元は世界の数だけ、それこそ無限大に種類が存在するが、その中でもとりわけ特殊な次元がいくつかある。
その一つが、神次元――全次元世界の神々が一堂に会することのできる、神々だけの世界を構築する特別な時空間――である。
「神次元……? んんん……? え……?」
鳩が豆鉄砲を食ったように、八恵は眼をまん丸に見開いて驚愕の表情を浮かべた。
そしてハッと表情を変えるや、改めて周りをきょろきょろと見渡してみる。
延々と地平線の彼方まで広がる雲の海、それらをまじまじと、じっくりと見て、八恵はようやく気が付いた。
うねり曲がった山脈のような起伏の雲、小さな離れ小雲、どこまで高くそびえ浮かぶ巨大な雲……それら眼に入るものは全て、実際は雲なんかではなく、悠久の年月をもって神々が築き上げてきた、純白の建造物群だったのだ。
また、それら数え切れないほど多くの構造体を支える大地は、それ自体も絹のような白練の色をしている。
白、白、白、どこを見ても、白。
目覚めた直後のぼやけた視界の中では、目の前のこの光景を、果てしなく広い雲の海に見間違えるのは、無理もない話であった。
「う、うそん……」
唖然とした面持ちを隠せぬまま、視線をふっと上げてみれば、八恵が普段見慣れている澄きとおった天色の空はそこになく、煌めきの彩光が天上から降り注いでいた。
「ただの日の光にしては、やけに力が湧き上がってくると思っていたけど、熾星昼だったわけね……」
神の住まうこの国に、闇夜は存在しない。
世界は常に輝きで満たされ、熾星昼と呼ばれるこの地を照らし続ける光には、神々に通う力を活性化させる作用もある。
生命力を帯びた太陽の清輝を全身に浴びれば、確かに多少なり活気が宿って意気揚々とするかもしれないが、熾星昼のそれは訳が違う。
漫ろ雨ごときで少しセンチメンタルになってしまった気分なんて、いとも容易く上向き好転してしまうというものだった。
「……アヤっち! これはどういうこと! 日向ぼっこするなんて嘘ついて!」
とはいっても、昂る情動を抑える効果は、残念ながら熾星昼にはない。
わなわなと唇を震わせた後、八恵は我慢ならず彩に向かって吠えた。
どうやら八恵は彩に騙され、雲で気持ち良く眠っている間に神次元へと拉致されたらしい。
嵌められた。
信頼していた友、あろうことか彩に嘘をつかれたという事実は、八恵の胸を衝くものであった。
ショックは大きく、きつく閉じ眼からは、涙が滲み出てきそうだった。
「ひどい、ひどいよ……アヤっちのばか! おたんこなす! すっとこどっこい! 癖っ毛! お魚さんパンツ!」
八恵は込み上げてくる失念や悲しみを、陳腐な言葉にして彩に浴びせかけた。
虚しい、意味のない雑言でも、吐き出すことで少しは気持ちが楽になると思ったから。
だが、そんなことで簡単に落ち着くわけもなく――
「もう知らない! 知らないんだからね! 私は帰る!」
彩にそう告げると、神次元から立ち去るため、八恵は己に宿る力を使って解放次元――八恵とその仲間たちが住まう解放都市のある世界――へと繋がる入口を現出させようとした。
した……のだが。
小さな手に、ぎゅっと腕を掴まれる。
「離して、アヤっち! アヤっちに何と言われようと、私は――」
「定例神会」
八恵が続けようとした言葉は、彩の口から発せられた一言によって遮られた。
そして、その言葉を聞いて閉口すると同時に、思わず身体までぴたりと止まってしまう。
まるで、時が止まる呪文を唱えられたかのように。
「定例神会、ちょうど今日開催なんですよ~。知ってましたか~?」
「…………」
黙殺。
じわりと、額から汗が染み出てくる感覚。
「今回はボクと一緒に、出席しましょ~」
「い、嫌だ! 絶対! なにがなんでも!」
時が動き出す合図が如く、彩が促すように腕をくいくいと引っ張ってきたので、その手を払いのけようと、八恵は駄々をこねる子供にも負けない勢いで腕を思いきり振り回した。
しかし絶妙な脱力加減で掴まれているためか、中々振りほどけない。
もはや全力腕縄跳び状態。
「我儘言わないでください~。それにもう、ほとんど現地に着いてるわけですし、観念してくださいよ~」
「嫌なもんは嫌! 第一、あの集会関係のことは全部、君たち、解放次元の神々諸君に任せるってお願いしたでしょっ!」
あの集会とは、彩が言った定例神会、つまり定期的に行われる神様たちの集まりのことを指す。
その活動内容は、各次元世界に散らばり、統括している神々が集結して、担当している世界の状況を報告するというもの。
知的生命体発生の有無、人間のような生き物がいるなら彼等と上手く共生できているか、その世界の物理法則などに破綻が生じていないかなど、そんなことの報告会だ。
もし、何かしら不都合な事態が発生している世界があるならば、修正されなければならない。
そのため、それら世界の事象に関することは、無限大に存在する次元すらも統べることができる力を有する唯一絶対の神、全皇神と呼ばれる存在……すなわち、昇千妃八恵に報告されることになっている。
下級者で手に負えないことは上級者が対処する、それは神々の世界であろうと変わらない、ごく自然な構図だ。
最終的に全ての世界の均衡を保つという、自分にしか全うできないこの使命自体は、八恵も渋々ながら受け入れている。
だが元来より、自由奔放を求め生きる八恵としては、可能な限り、神として受容しなければならない使命にさえ縛られたくないのが、心からの本意であった。
そんな八恵にしてみれば、拘束時間が長く、体力的にも精神的にも負担が大きい大人数の集まりに参加するなんて、真っ平ごめんな話だった。
――どうにかしてどうにかできないものか。
そこで八恵は考えた。
「定例神会には私の代わりに、私の解放世界の神たちに参加させて、彼らから事後報告を聞こう」と。
この提案以降、基本的に全皇神たる八恵を抜きに定例神会が行われることになったが、今に至るまで特別不都合が生じることもなく、上手く機能し続けていた。
そう、だから今回の定例神会も、本来は八恵が直々に参加する必要性はないはずなのだが。
「確かに、定例神会に関してはボクとか、他の神様方が一任されてますけど~」
「うんうん、そうだよそうだよ。いつも通り、私は君たちから後で要点をまとめた報告を聞ければ問題ナッシングなのだよ。だからね、私は――」
「でも、この前言ってたじゃないですか~。今度は久しぶりに顔出してもいいかな、みたいな~」
ギクリ。
彩の発した言葉を聞き、ぎこちなく硬い動きをしてしまった。
澄ました顔で平静を装うとしつつも、だらだらと垂れ流れる汗は止められない。
「前々回の定例神会後の報告会で、久しく八恵さんが神次元にいらっしゃらないことにお気持ち表明している神様たちが増えてきたって、ボク言いましたよね~?」
「……言った、かもしれない」
「そしたら、随分とご機嫌に『ご無沙汰ぶりに顔見せするのもいいかもねぇ』って、八恵さん言いましたよね~?」
「……言ってない」
「言いました~」
「い、言ってないもんー!」
定例神会へ直々に出席しないことになってから、八恵が神次元へ赴くことは殆どなくなった。
だが不本意ながら、全くなくなったわけでもなかった。
彩の報告にあったように、本当にずっと姿を見せないでいると、全皇神たる八恵への謁見希望の声が神々の間からあがってくるのだ。
どのような思惑や意図があるのかは知らないが、一言だけでも八恵と言葉を交わし、ほんの僅かでも面識を得たいと思う輩が少なからずいるらしい。
正直なところ、それら希望の声に応える義理も、必要も、八恵にはない。
無視し続けていても何ら問題はない……のであるが、どこからか八恵と近しい人物――具体的には結奏とか想陽子とか――の耳へと、八恵がだんまりを決め込んでいるらしいという話が入り、何で皆に会ってあげないのか、それでも神の長か、仕事しろ、といった旨のお説教の嵐が飛んできて、渋々と神次元へ足を運ぶ羽目になることが度々あったのだった。
とはいえ、それはあくまでもイレギュラーな結果であって、神次元に行きたくない、とりわけ定例神会に参加したくないという揺るぎない信念が根底にある以上、間違っても自ら定例神会への気まぐれ参加表明をするなんてことは、ありえないのだ。
ありえない、はずだったのだが……
「あの報告会のときはお酒の席も兼ねてから、ついうっかり、ほんとうっかりして、口が滑っちゃっただけなんだもーん! だからあれは私の本意じゃない、つまるところ私自身の言葉じゃない、即ち私は言ってなーい!」
昇千妃八恵、紛れもなきアホの娘。
「酔っ払ってるんだろうなとは思いました~。でも、そんなのは関係ないんですよ~。冗談であろうとなかろうと、あの場で言葉にされてしまった以上は、八恵さんのお気持ちとして受け取らざるを~」
「うぅ、そこまで真面目にしなくったっていいじゃんかー!」
「いやぁ、八恵さんがテキトー過ぎるんですよ~。ほんとに八恵さんって全皇神様なんですよね~? もうちょっとしっかりしていいとボクは思います~」
「……アヤっち、たまにストレートに突き刺さること言うよね。まあ、それは置いておいて――」
そう言って右から左へ物を置く身振りをした刹那、身体が後ろに仰け反るほどの強烈な力が八恵を襲った。
「うにゃにゃにゃにゃにゃー! 一体何事ー!」
突然の出来事に、状況が全く飲み込めない。
目の前から吹き付けてくる猛烈な突風、それを顔に受けながら、かろうじて眼を開けてみれば、視界の端っこに映る景色がすごい勢いで後方へ過ぎ去っていく。
どうやら、八恵たちを乗せた雲が猛スピードで飛んでいるらしい。
目の前で何食わぬ顔をしている、彩の仕業なのは間違いないが、予告も無しにいきなりこの仕打ちとは、本当に恐ろしい娘である……
それにしても、普通ならばこんな急加速急発進、それに全身へ掛かる空気抵抗を考えれば、今頃雲から振り落とされているのが自然だ。
それでも尚、八恵は雲の上に立っている。
一体なぜなのか――そう思ったとき、八恵は背中を後ろから、何かによって支え押さえれている感覚を覚えた。
後方から感じるその力の感触は、前方から轟轟と吹き付けてくる風によって受ける力と同じもの。
察するに、それは彩による気粒を使った力。
彼女が八恵の周辺に渦巻く気粒を操り、身体が前に倒れそうになれば後方から加わえる力を弱め、逆に後ろに倒れそうになれば後方から加わえる力を強めることで、八恵が前にも後ろにも風圧で吹き飛ばないようにしている、ということだろう。
少しでも加減を間違えれば力のつり合いが崩壊し、あっという間に八恵は雲から放り出され、神次元の空の藻屑となるところだが、彩はこの繊細さを要するコントロールを、雲を凄まじいスピードで大胆に操縦してる中でやってのけているわけで、まさに神がかり的な彼女の能力行使の手腕は、流石の一言に尽きた。
しかし一方で、八恵はその身に、若干の違和感も同時に感じていた。
「あ、あれ……か、身体が……」
一瞬一瞬で、八恵に対して各空間方向から加わる力は変動するが、全体では常に力の均衡が一定に保たれるようにされたこの状況。
それは、いかなる瞬間も力の差がゼロ、外部方向へ力が働いていないことと同義でもあった。
この状況でそれが意味することは、加速度ゼロの静止の連続。
つまり――
「前にも、後ろにも、そして何故か横にも……全く動けないー!」
言うなれば八恵は、空気でできた全身拘束衣を着せられているようなものだった。
頭のてっぺんから足のつま先まで、どんなに力を入れて微動だにしない。
リバティック・フォース――全皇神である八恵だけが扱える力———を解放し、その身に纏っているならば、こんな状況は何の苦も無く打破できるが、力を発動させる前にここまで身体の自由を奪われてしまっては、流石の八恵でもどうにもできない。
両手を高く上げて動けなくなったその姿は、文字通りのお手上げ状態。
完膚なきまでに、成す術なしだった。
「これ以上八恵さんの言い訳を聞いてたら遅れてしまいます~。それに前回の定例神会で、今度は八恵さんが顔見せにしにやってくるって他の世界の神様方にもお伝えしちゃいましたので、今日は来てもらわないと困るんですよ~」
「謀ったなァァァ! アヤっちィィィ! 帰らせにゃあああああ!」
彩が喋り終えるや、更に身体が締め付けられて重くなる感覚。
そして外の景色は、より一層高速に視界からスクロールアウトしていく。
八恵を乗せた彩の飛行機雲は、光の空に軌跡を残し、音速にも近い速さで天空を翔けていくのであった。
――――――――
解放都市。
一日中降りしきっていた雨はいつの間にか止み上がり、市街は湿った大地の匂いで満たされていた。
世界を照らす日輪はとっくに地平の下に姿を消し、今は細切れな雲の合間から幻想的な月影が差し込む。
方々からは労いの杯を交わす声が聞こえ、宴席に興じる者も現れる宵の口。
どこか妖しくも、陽気な影を浮かべる街の上空で、一筋の輝線が夜空を切り裂いた。
光の切れ目からは人影が二つ。
羊のように、もこもことした雲に乗って現れたそれは、一つは雲の淵に座って外へ足を投げ出し、もう一つは雲の中央でぐったりと身体を大の字にさせて天を仰いでいた。
「……思い出したよ。アヤっち、いつだか前も唐突に私のとこへやってきて、お出掛けしようとか言って連れ出したと思ったら、他の神たちと結託して無理やりあっちの世界に拉致ったことあったよね」
「あの時は大変でした~。他の皆さんと力いっぱい協力して、ようやくでしたから~」
「扉の前までは予告なしで連れて行かれたけど、通る前にはちゃんと目的地を教えてくれたもんね。そりゃあ、全力で抵抗するさ。でも、今回は私が寝てる間にこっそり、そんで着いちゃったと思ったら、手も足も出せないままあの爆速直行……非神道具合、増しすぎでは? てか、私がうっかり昼寝しなかったら、どうするつもりだったのよ?」
「着くまでのお楽しみということで目隠しして、そのまま扉を通ろうかなと~」
「アヤっち、君はいつからそんな外道に……」
「失敗を教訓に、改善ですよ~」
二人の少女、八恵と彩を乗せた雲はゆっくりと降下していき、街の郊外に構えられた建物の前へと着陸した。
「とはいっても八恵さん、神次元に連れてこられたって分かった後、ほんとは逃げることできましたよね~? ボクとお話してる間とかだって、ボクのこと無視すれば簡単に力を使えたはずですし~」
「あれは、その……ど、動揺! あまりのことにびっくりしちゃって、咄嗟の判断ができないまま、ずるずる―っとしちゃったのだよ!」
横並びに会話しながら、所々小さな水溜りのできた道を進み、少女たちは降り立った邸宅の中へと通じる入口の前に辿り着く。
「なるほど~、動揺ですか~。で、ほんとのところは~?」
「……顔見せするって、口滑らせちゃってたから……」
「あはは~。八恵さんって、真面目なのか不真面目なのか分かりづらいですよね~。もうちょっと普段から真面目でいいとボクは思いますけど~」
「アヤっち、とことん容赦ないねぇ……」
「でも、八恵さんのことだから、ボクは信じてましたよ~」
「だったらわざわざ、騙し討ちみたいな形で色々回りくどくしなくてもよかったでしょうよ! 最初から普通に声かけてもらえれば……嘘つかれたことだけは本当にショックだったんだから、まったく」
「信じてはいましたけど、念には念を入れようかなと~。だけど、そんなこと言う八恵さんだって、ボクが八恵さんのうっかり発言のことを指摘するまで、なあなあな感じでちゃっかり帰ろうとしてましたよね~。八恵さん自身はとっくに、何で連れてこられたのか勘付いていたはずなのに~」
「そ、それは……」
「指摘した後も何だか諦めが悪い様子だったので、ボクも強硬手段に出ちゃいましたけど~。結局のところ、やっぱり八恵さんは真正の不真面目さんです~」
「うーにゃにゃー! うるさいうるさい! とにもかくにも、最高神たるこの昇千妃八恵を謀ったのは間違いないわけだし、罰としてアヤっちには、ふにふにの刑を処す! おりゃりゃー!」
「わわわ~、八恵さんくすぐったいですよ~」
「……お取込み中悪いが、あんたらは人の家の玄関の前で何やってんだ」
八恵と彩がじゃれ合いを始めたその時、目の前の大きな扉が開け放たれ、中からはこの家の家主、結奏がジトっとした目つきで出てきた。
「八~恵ちゃん。あ、それに彩ちゃん! こんばんはっ」
そして結奏の後ろから、にこにこスマイルの想陽子もひょっこりと顔を覗かせる。
「結奏さんに想陽子さん、こんばんは~。お久しぶりです~」
「あれ、ユカっちだけかと思ったらソヨっちもいる! 一体これは?」
「えへへ、今日ね、とっても嬉しいことがあったの。それでずっと気分がルンルンしてたら、何だか皆にも会いたくなっちゃって。多分八恵ちゃんもいそうな気がしたから、作ったお夕飯とかを持って、結奏ちゃんのお家に来てみたのですっ」
「演奏会の帰り道で想陽子と偶然会って、ちょうどさっき一緒に帰ってきたところでな。あんたが来るまで、先に想陽子と軽く始めてようかと思ってたら、外の方から聞き覚えのある声が聞こえてきて……ところで、彩がいるなんて珍しいじゃないか。またいつもの、神さんたちの集まりでもあったのか?」
「はい~、今日は八恵さんと一緒に行ってきました~」
「どちらかというと、私は拉致被害者だけどねん」
「いやいや、どうせまたあんたが……まあともかく、話するんなら中でしようぜっ」
「ふふふ、今日は八恵ちゃんと彩ちゃんの楽しい話が聞けそう! 二人とも、早く入って入って!」
「ここまで来ちゃってあれですけど、ボクもいいんですか~?」
「にゃっはは、当たり前でしょ! ほら、アヤっち行こ!」
「それじゃあお言葉に甘えて、ご相伴にあずかります~」
「うむうむ! さあ、今宵は飲み明かすぞー!」
何時間か前まで、哀愁の雨に身も心も冷たく濡らしていたのが嘘かのように、彩の手を取った八恵は楽し気に、温かく笑った。
晴れの日があれば、終わりの見えない延々と降り続ける雨の日もある。
しかし、止まない雨はない。
雲の向こう、月の映える夜の帳には、長い一日の終わりを静かに告げるように、星々が点々と明るく輝いていた。
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[ヤエ's comment]
新キャラの天道彩、皆さんはどのような印象を持たれたでしょうか?
ゆるいような、ゆるくないような感じですが、きっと、恐らく、八恵よりは真面目ちゃんなのでしょう。
あと、多分ほっぺも柔らかい。
あぁ、私も彩が作った雲さんの上で、惰眠を貪り続けるだけの毎日を送りたいものですねぇ…(ぇ